『新訳1989-』片山凌/たなかかなめ/石田遥花****講評/若宮和男

8/11-18に平井の本棚で開催された企画展『新訳1989-』に、起業家・アート思考ファシリテーターの若宮和男さんから講評をお寄せいただきました。以下、ご紹介します。
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●講評 『新訳1989-』 片山凌/たなかかなめ/石田遥花

時代」というものはたいてい、他者からの、しかも事後的な名付けだ。縄文時代、そのただ中にいる人は自分たちの時代をそんな風に呼ばなかった。

だけど今回は少し事情がちがう。我々は「平成」という時代の中にいながら、しかもそれがいつ終わるかを知っている

下町の変な本屋・『平井の本棚』の二階。細い階段を上がって15坪ほどのギャラリーに入ると、キュレーターのワタナベ氏からテキストを手渡された。

「今、必要なのは「時代」という解釈の拒否と、その後の新訳である」

企画展『新訳1989-』は、平成最後の夏に、「平成世代」として生きてきた「中の人」である作家たちによって「平成」を再構築しようという試みだ。

左手の壁にたなかかなめのペインティング。その奥に片山凌。そして右手奥の一角に石田遙花。今回の展示はサイズが小さいので、いちどきに作品を俯瞰してみることができる。まずぐるっと一周。それからそれぞれの作品をゆっくり。

企画展をみるとは“同質性と異質性の葛藤”を楽しむことだと思う。作品群を貫く「通奏低音」と、複数の作家性が隣り合うことで生まれる「ズレ」。繊細なバランスの上で、ふるふると動的に揺れる、そういう企画展が好きだ。

彼らに共通するモードは確かにある。なんといったらいいのだろう、レイヤーのような感覚

 

―――オールオーバーな画面に重ねられる、Z世代的なワードたち(たなかかなめ)。ポップアートの手法でデトックスされた政治アイコン(片山凌)。日常[ケ]とコラージュされた宗教性[ハレ](石田遙花)。それらは衝突せず、InstagramやSNOWのフィルターのように、そしてSNSの複アカのように、2ミリくらい現実から浮いている。

これは昭和生まれの僕とは違うモードだ。ミレニアル世代や「ゆとり」のイメージと近しく、「いわゆる平成っぽ」くもある。

「新訳」とは誰のためのtranslationか。昭和生まれの僕たちか、同世代の平成生まれか。「おじさん、ほんとの「平成」はこうだよ」?それとも「平成のみんな、「平成」ってこうだろ」?

ひとは、他者から名前を与えられて個としてはじめて同定される。他者によってはじめて自分になる矛盾。その名を新訳することは可能だろうか?そしてそれをできるのは自分だろうか?名付けた他者だろうか?

改めてひとりひとりの作品を見る。レイヤーは共通のムードだが、そこへの態度は少しずつちがう。片山凌の関心は、現実から浮遊するレイヤーの方を主題としているように思えるし(もはやクラウド上のデータの方がマスタなのだ)、たなかかなめは複層性そのものを描こうとしているように思える。一方、石田遙花のコラージュは遊離しない。「レイヤーを結合」の操作をしたように、生活に宗教が等価に埋め込まれる。

そこではたと気付く。「現実」なるものがあり、仮想的に「レイヤー」が重ねられる、という感覚がすでに昭和のモードなのではないか。平成の彼らにとってはそこに優越も乖離もなく、ただバーチャルな[事実上の]現実だけがある。

この新訳を僕が本当に彼らと同じ感覚で読むのは不可能かもしれない、と思った。そして皮肉なことにそれは、彼らもまた僕の「平成」に本当には届かないということでもある。

「新訳」は可能か?歴史の天使はいつも、過去を凝視しながら未来へと強風で飛ばされて行く。

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【執筆者プロフィール】

若宮和男(起業家、アート思考ファシリテーター、一級建築士)

2005年、東京大学大学院 人文社会系研究科にて美術藝術学の修士号を取得。多数企業の新規事業立ち上げに携わったのち、現在は起業家として、アート/テクノロジー/ビジネス領域で横断的に活動

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