東京の東のはじっこ、荒川と旧中川に挟まれた三角の島、平井。ぐるり川に囲まれ、荒川を挟んで葛飾区・江戸川区、旧中川の手前は墨田区と江東区と接する境界の街、はじっこにある街である。それぞれ関所が設けられ、手形がないと通れない、というようなことはない。
平井には、ついでに行く場所や用事がない。「知り合いが住んでいる」という人以外は、たいてい「両国・錦糸町・亀戸」の次は、「新小岩・小岩」に跳んでしまう。抜け落ち、記憶に刻まれず、話題に上らないエアスポット、それが平井だ。
平井を話題にすると「行きつけの飲み屋があるよ」という人はいる。平井には三業地、すなわち「料亭」「置屋」「待合」の三業が許された花街があった。その名残がわずかに残る飲み屋・スナック街を夜毎に回遊する人達が沢山いて、不思議なコミュニティがある。焼鳥屋に荷物を置いたまま、別のスナックや居酒屋をはしごし、戻ってきて社交の成果を披露し、噂話をする。傍できいていると不思議である。
かつては相撲部屋もいくつかあって、幼稚園の餅つきは必ず力士がつき、中学校の校庭には土俵があった。父曰く、戦前の巨漢力士・出羽ヶ嶽(サバ折り文ちゃん)が、平井の釣堀でよく釣り糸を垂らしていたそうな。芸者との逢引の時間つぶしだったのだろうといっていた。北杜夫「楡家の人びと」や色川武大「怪しい来客簿」の文ちゃん像が物悲しく、むっくり起き上がるような感じがする。残念ながら、芸者と力士が住まうような艶っぽさは、いまの平井にはほとんどない。
ごく小さい頃には正月に門付や獅子舞の記憶があり、豆まきで神社と寺をはしごし、近隣の公園に行けば紙芝居や型抜き、校門前でしんこ細工、駄菓子屋やそろばん教室が子どもの放課後の居場所であった。多分、同時代の東京育ちの人たちよりも、20~30年ほどタイムスリップしたような下町習俗が残っていた。かなり前から日本語学校があり、中国系、インド系、東欧系、アフリカ系など、様々なルーツの住民が多く、夏祭りで法被を借りて神輿を担いでいたりする。雑多で気取りようがなく、その住みやすさに、いろんな人が潜んでいる。
よその街に引っ越して驚いたことは、消防車が通っても、誰も走って火事を見にいかないこと。近所の誰それが博打ですって夜逃げしたというのが日常の食卓の話題ではないこと。浅草や深川のように下町と自負するには面映く、自分の街のことを一様に自虐で語る。物見高く、新しいもの好き、熱しやすく冷めやすい。人類学者が調査したら、平井の民の生態について論文が1本くらいは書けるかもしれない。